ダダイズム-芸術、日常に大きな影響をおよぼした!?|芸術って何だ!|デッサンと言う礎

デッサンと言う礎-デッサンの基礎技法、描き方

ダダイズム-芸術、日常に大きな影響をおよぼした!?ダダイズム!

芸術って何だ!【デッサンと言う礎】
「ダダ」は20世紀初頭に台頭した運動である。「その運動を称する「ダダ」は。ラルース辞書を無作為に繰って偶然出た語であるとか、色んな説があるが、要するに「無意味」を意味し、それゆえに彼らの否定精神を象徴する語である。

ダダは第一次世界対戦中およびその直後に、各地に広まった運動である。「ダダ」の運動は、「大戦」によって強いられた悲劇的な犠牲に対する反発が発端であったといえる。ヨーロッパの文明を自己破壊の淵にまで追いやった社会の力、科学的、技術的な進歩を前提とした合理的な近代社会の武力を、激しく避難した。また、ブルジョア社会の枠組みに安住したうえでしか成り立たない芸術の方向性に対してうさん臭さを覚えていた。その脱出のための裂け目をつくりだすために合理性とは正反対の美術を提示した。それは、不条理を暴きながらも冗談めいていて、対決的でありながらも虚無主義的で直観的かつ感情を露に表現するような、そうした美術を提示した。「ダダ」の美術の形体、概念、その姿勢に言及する事なく、20世紀後半の美術を理解する事は不可能である。  

「ダダ」は1916年、チューリッヒの芸術クラブ「キャバレー・ヴォルテール」をルーマニアの詩人トリスタン・ツァラら多数の芸術家によって開店し活動を始める。毎夕、クラブで音楽や文学のデモンストレーションを行なった。ドイツの作家フーゴ・バルは音声詩という試みを行なっている。それは、何の意味も持たない羅列のような詩の事で、紙製のなんだか分からない服を着て、一晩中大声でもっともらしく朗読をしたという。ツァラも同時進行詩というのを試みている。これは、英語、フランス語、イタリア語で同時に詩を朗読して、聞く人が意味不明になってしまうものであった。既製の文化を否定するために、意味を剥ぎ取った後に現れる素材という根源的で物理的な単位に、「芸術」を戻し、意味という衣装を着ていない裸の物質性から始めることを基本としていた。


マルセル・デュシャン(1887年7月28日 - 1968年10月2日)ニューヨークではチューリッヒの活動をうけつぐのではなく、同時発生的にダダ的活動が行なわれた。中心的人物にフランシス・ピカビア、マン・レイ、マルセル・デュシャン(1887年7月28日 - 1968年10月2日,写真上)らがいる。そこでは造形芸術の領域に関わる問題が争点の中心になっていた、既存のあらゆる芸術の体系を打ち壊そうという意志を持つ。デュシャンが1917年に発表する「泉」(写真中)は、既製品を美的感覚によらずに選ぶレディ・メイドという概念だった。近代芸術の「純粋な美」を追求してきた画家の感覚、感性を捨て去る行為として「選ぶ」という方法をとったのである。この主張の根拠は、近代芸術は科学技術による疎外を全体としてとらえきれず、世界をさらなる展開に導く事ができなかった所にある。「泉」レディ・メイド現代芸術を予見したデュシャンは、芸術表現にふれる鑑賞者の立場を重視した。彼は作家の概念が表現行為、表現された事物を介して鑑賞者の側に引き起こすあらたな概念化の営みこそ「芸術作品」と主張する。このような作家と鑑賞者をつなぐ表現行為の重視はハプニングやパフォーマンスに受け継がれていく。そこでは作品の内容と共に、作品のタイトルという要素がとても重要視される。また、デュシャンにおいて特筆すべき所では、「ジョコンダ・L・H・O・O・Q」という作品(写真下)で「モナ・リザ」の複製に口ひげをつけた作品がある。「ジョコンダ・L・H・O・O・Q」口ひげを描き混むこむことでジョコンダ夫人というオブジェの影としての「モナ・リザ」は嘲笑され、オブジェにひきもどされてしまう。既存の芸術に対する否定が含まれ、オブジェの概念を新たに浮き彫りにする。このオブジェの影としてのイマージュとオブジェの問題はネオ・ダダなどへ受け継がれていく。デュシャンの行為は、様々に典拠とされ、それに続く時代の非芸術を芸術に取り込む行為の根拠となっていく。

ベルリンにもまた、社会的な混沌の渦のなかで、新しい価値体系を打ち立てようとする動きがあった。チューリッヒのダダの否定的で破壊的な響きとは異なり、ベルリンの方向は、新しい価値、それも芸術内で終止するのではなくもっと広く社会全般に有効な価値を作り出そうとする点、つまり社会革命の志向を含んでいた点で特徴づけられる。彼らの社会批判は、人間の生きる社会的な条件について考慮せずには、ほとんど何もかもが無効であるように、生存する事自体が問題になる。彼らの運動は「芸術」に限らず政治的な色彩に染められていった。美術の視点では雑誌やポスターの作成を中心に展開された。手法は、タイポグラフィー、コラージュ、フォトモンタージュといった、自らの手で描くことをしない間接的な手法であった。コラージュではジョルジュ・ブラックが行なった様な、絵画の材料として取り込むものではなく、物質的な側面を重視した絵画を作る素材とは異質なものとして利用される。既存の絵画の枠組みを壊すことで、「反美術」としての美術作品を成り立たせようとする。コラージュはアッサンブラージュという手法をうみだし、彫刻と絵画といった既製の美術形式を揺るがせた。

ダダは閉塞状態にある精神を解放にむかわせる希求の状態を意味した。既存の秩序、ブルジョアの価値基準に乗っ取った体系の網に対する反抗は、精神の解放、個人の自由を求めることを根拠にしていた。その運動が個人に返されるようになると、つまり、激しく提示したものについての解決を自らが引き受けなければならない段階になると、その先へ歩むために、それぞれが新たな理念、新たな体系、新たな価値を必要とした。その時、個人の目指すものの差が明かになる。ハンス・リヒターは、ダダの概念を次のように述べている「ダダの信条は、個人の自由の神のような正しさを、新しいものがうまれる唯一の源泉と信ずることだった」。集団のレベルで個の解放が探られる時、革命が志向されるが、そのエネルギーが個に返されると、集団は内からの力によって分裂していく。ダダはそういう風にして終わりをつげた。しかし、ダダの体験は、20世紀の芸術全般にわたって様々に刻印されていった。

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